日本のギャンブルはいつ始まった?日本のギャンブル文化を解説します

日本でのギャンブルの起源はどのくらい遡るのでしょうか。カジノ法案も成立し、日本のカジノ誕生もそう遠くはありません。一体いつから、そしてどんなギャンブル(賭博)が行われていたのでしょう。

実は日本でギャンブルが行われたのは、いまから約1300年以上も前の飛鳥時代とされています。

この頃からすでにギャンブルの禁止令もありましたが、長らく庶民に親しまれてきました。そこで日本におけるギャンブルの歴史について詳しく解説していきます。

日本で最古のギャンブルは日本書紀に

日本最古の歴史書である「日本書紀」には、西暦685年(飛鳥時代:天部天皇14年)に天部天皇が「博戯(はくぎ)」と呼ばれるゲームを見物している旨が書かれています。博戯とはいわゆる「双六(すごろく)」のようなもので、中国から渡来した賭け事を楽しむ遊びです。

双六は紀元前2600年頃にメソポタミアで誕生したと言われますが、インドを経由して中国にわたり、そして日本へと伝わりました。天部天皇もこの賭け事を楽しんだという推測もありますが、残された文献からはそのような記述は見られません。

単に興味を持った博戯を広めただけだというのが正しい見解かもしれません。

いずれにしてもこの博戯は広まり、博打を打って財産を失う人が続出しました。そこで賭け事が世を乱すことを危惧して689年(持統天皇3年)に持統天皇(天武天皇の皇后)が「双六禁止令」を出しています。

戦国時代に誕生した「サイコロ賭博」

博戯はバックギャモンのような「盤双六」として普及しましたが、戦国時代に入ると廃れていきます。これは合戦の合間に楽しむためには、道具を運ぶ必要があったためです。

そこで手軽に楽しめる賭博として誕生したのが、サイコロ2つを使って楽しめる「サイコロ賭博」です。これはサイコロを振って出た目で勝敗が決まる「丁半博打」のようなものでした。

必要な道具は盤双六で使用するサイコロだけであり、かつ短時間に勝敗が決まるため広く普及します。

丁半賭博のルールは極めて簡単で、ツボ振り役がツボに2つのサイコロを入れて振り盆に伏せます。賭博の参加者はそのサイコロの目の合計数が丁(偶数)か半(奇数)かを予想して賭けます。この時、コマ札と呼ばれるものを参加者は丁か半に賭けて、それぞれの数が揃わなければ揃うまでコマを揃えさせます。

丁と半のコマ数が揃えば、ツボ振りはツボを開いて勝敗を確認し、勝った参加者が負けた参加者のコマを受け取ります。

江戸時代のギャンブル

戦国時代から江戸時代に移ると、賭博の流行りにも変化が現れます。まず一般庶民の間で流行ったのが「かるた」です。

かるたは安土桃山時代にポルトガル人が日本に持ち込んだものですが、そこに日本独自のアレンジが加わります。現在のトランプに似たようなものですが、かるた賭博が上流階級から庶民に、そして大奥でも行われたと言われす。そしてこの「かるた」が進化を遂げたのが「花札」です。

かるたや丁半賭博などで金品を賭ける行為が広まり、禁止をしてもやめることがなかったため幕府は1664年にある法令を出しました。それによると、賭博に負けて奪われた金品は幕府に訴え出ることで取り戻すことができる、となっています。

また1787年の「寛政の改革」では賭博用のかるたの製造と販売を禁止し、1788年には賭博を密告した者に褒美を与えるとのお触れも出されました。

明治時代のギャンブル

江戸時代にも何度か賭博を禁止してきましたが、明治時代に入ると少し様相が変わります。というのも、政治に対して意見を唱える「自由民権運動」の中心に、反権力的思想を持つ「博徒」と呼ばれる人がいるからです。

博徒とは賭博で生計を立てている人ですが、この自由民権運動を弾圧する目的も含めて明治政府は「賭博犯処分規則」を制定しました。それまでは賭博は現行犯逮捕が原則でしたが、現行犯でなくても逮捕するようになり、これが国民に対して賭博は反権力的なものとの認識を与えることになったようです。

その一方で、江戸時代から長らく禁止されてきた「花札」が解禁される流れが生まれます。これは文明開花により西洋の考えが広まったことが背景にあります。

西洋文化のひとつとして「トランプ」が普及し、あくまでも遊戯用であればトランプの使用は問題ないという西洋思想が広まったのです。その流れで花札もあくまでも遊戯用として使うのであればよいとの考えを背景に、さまざまな絵柄によるものが誕生しました。

しかし、花札は賭博としても使用が可能であることから、1902年に「骨牌税法(こっぱいぜいほう)」が制定されます。これは花札や麻雀牌など賭博でも使用できる道具を製造する業者に税金を課すというものです。その結果、花札製造業者の多くが廃業し、花札は廃れていきます。

ちなみに麻雀が広まったのは大正のはじめ頃で、1925年頃には東京と大阪を中心として多くの麻雀店が誕生しました。

戦後のギャンブル

第二次世界大戦が終わると、戦後復興の目的で公営ギャンブルが誕生します。まず戦前から行われていた公営競馬の馬券販売が1946年に再開されました。

競馬は1860年に横浜の外国人居留地にて初めて行われましたが、治外法権が認められていたことにより江戸幕府や明治政府の賭博禁止の影響を受けなかったのです。そして日本政府が容認する形で1906年11月に東京の池上競馬場で初めて馬券発売を伴う形で競馬が開催されました。

続いて1948年11月には福岡県で競輪が開催され、1950年10月には千葉県船橋市でオートレースが、1952年4月には長崎県で競艇が開催されます。このように次々と公営ギャンブルは種類を増やしていきました。ただしGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が公営ギャンブルの全国組織を認めなかったため、地方自治体による開催という形がとられました。

昭和30年代にはギャンブルに対する反対運動が活発になったことを受けて、1962年9月から公営ギャンブルの競技場新設は事実上行われなくなりました。

パチンコの歴史

公営ギャンブルとは別に、パチンコの普及についてもみていきましょう。もとは大正時代に欧米から輸入されたゲーム機が原点であると言われています。まず露天商が縁日などに置き、昭和時代に入ると一銭銅貨をはじくタイプのパチンコ機が人気を集めるようになります。

しかし銅貨には皇室の御紋が入っているため遊戯に使うことを禁止され、模擬硬貨となるメダルや玉を使うものに変わっていきます。さらにあめ玉や駄菓子の代わりにタバコが景品となったことで、大人も楽しむようになりました。

太平洋戦争が始まるとパチンコは禁止されますが、戦後には農村部などに残っていたパチンコ機を改造して営業が再開され、昭和20年代には現在のような釘配列のパチンコが考案されます。さらに昭和20年代末になると玉をひとつずつ弾くものから自動的に玉が出る連発式のパチンコが誕生しました。

まとめ

日本では古くからギャンブルが行われていたことがわかりましたね。そして同時にギャンブルの禁止も歴史が長いものですが、戦後復興のために公営ギャンブルが広まったという経緯があります。

またギャンブルはそれぞれの時代において、適した遊び方が考案され進化してきました。禁止されはするものの、市民の娯楽として根強く残っていることがわかります。

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